時は流れるのか?

今日の午前には、久しぶりの発熱があった。午後には、37度になりおちついていた。目はあきにくいが、ここはひとつ、外の風にあたり、身体全体を冷やしてしまうのがよかろうと考え、外へ連れ出した。風は強いが、風の少ない場所はいくつかあるから大丈夫だ。

背を倒し、サクラを見上げるポジションに車椅子をセットした。たまに薄目をあけてサクラをたのしみながら、風にふかれながら、お昼寝という超贅沢な時をすごした。ぼくは、サクラの写真をとったり、妻のマッサージをしたりしながら、車椅子のまわりをウロウロしていた。

この場所は、サクラは目の前で綺麗だけど、どうも光がイマイチだなと思いながら見上げていたら、雲がきれ、太陽光がサクラをみるみるとてらした。iPhoneですぐに写真におさめた。写真は、時間を切り取る装置だ。この瞬間は、まさにこの瞬間でしかない。

わー、綺麗だねー。。。といいながら、妻のほうをみると、ゆっくりと薄目をあけた。

この人、しっかり言語を把握しているし、時間の感覚も理解していることは、先日、あるきっかけでわかった。

そういえば、優さんが来た時に、妻が不思議なことを指談で伝えていた。ぼくのことを気遣い、毎日こなくても、好きな仕事に打ち込んでいいよというコメントだったんだけど、その時に「私にとって、わずかの時間もとても長く感じる。だから、大丈夫。」というような、意味不明な言葉が指談ででてきた。

優さんは 「あれ?? 短い時間でも、長いなら、もっと頻繁に来てほしいんじゃないの?」 と不思議な顔をしていた。これ以前から、ぼくは、どうも時間の感覚は、どこか違うんだろうなと思っていた。

そもそも、時間とはなにか?時間ってものがあるのか?なんてことを、考えてしまう。ぼくらが感じる「時間」とは、その生活の中で、時間の長さの感じ方は、様々だろう。妻の状態は、全身麻痺で動けないということにより、さまざまな感覚が敏感になっていることも考えられる。目が見えないと、聴覚が敏感になるように、妻は、以前、柴田先生がきたときに、読とってくれた言葉の中に、人の心の状態が流れ込んでくる・・・と表現していたことがある。

例えば、親友が遊びにきてくれて、明るい声で、元気〜!と声をかけられた瞬間に、あー、こんなことになって、かわいそう。。。という感情をうけとってしまうようなのだ。そのことを、柴田先生経由で妻は、その親友に伝えたことがあった。親友は、その言葉を聞いてびっくりして、声をなくしていた。

そういうことは、大いにあり得るだろうと、ぼくはあまり驚かなかった。このようなことは、きっと時間感覚にも起こっているのではないか。ぼくは、きっとシンプルな状態なんだろうと思う。常に永遠のような時間の中にいて、ある意味、永遠だし、時間がとまっている、あるいは、時間という概念がない世界に住んでいるのではないかと思っている。

それは、ぼくがいるときにはいる。そして、いないときにはいない。ただ、それだけ・・・というような感覚なんじゃないかなぁ、、、と、うまく言えないけど、そんなことではないかと、思っていた。そんなときに、優さんとの会話の中でのチグハグな会話は、それの象徴ではないかなと思っていた。

こんなことは、いくら考えても、意味はないことなんだけど、いつも考えてしまうのだ。
それでも、時は経ち、世は常なることは無い。サクラは咲き、散ってゆく。そして、また、新しい芽吹きがやってきて、新緑の季節へと移ろってゆく。

ところで、この芽はなんなんだろう?
ま、時間が経てばわかるよね。


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