「眺める」ということ

3日前から膝が痛い。なんのキッカケがあるわけではないのだけど、歩いていたら「アレ、なんかヘンだなぁ」という違和感から「痛い」にゆっくりと変化した。階段は登るのが大変になったので、エレベーターやエスカレーターを探す。

昨日も渋谷の街を歩いていた。膝のサポーターをして、痛みは軽減しているものの、人混みの中をまわりのスピードにあわせてあるく事は出来ない。ゆっくりと、まわりを確認しながら、止まり止まり
歩く。「あぁ、いつもあのスピードの中でペースをつくり歩いていたんだな」と、傍観者のような気持ちで、行き交う人々を眺める。

スピードはまさに時間そのものだ。ぼくは膝の痛みのおかげで、この時間軸というのをずらしてみることになった。そうすると、時間の流れ方が変わってくる。いつも、効率的に移動したいとか、バスに飛び乗るために走ったりする。しかし膝の痛みは、ぼくの行動に範囲をもうけ「やれること」「やれないこと」を分けて「やれないこと」を捨てさせた。

「やれること」=「ゆっくりと歩くこと」しか選択できない僕は、面白いことにいつもより、気持ちがゆったりとなった。今のぼくの中には、選択肢として走ることがない。慌てることがないのだ。人のペースよりゆっくりとすることで、まわりの流れを妨げないように気をつけて歩く。たまに、ぶつからないように立ち止まる。これは危険を回避するための有効な手段だ。いつも、つい忘れがちになる、老人の大変さを身を持って感じることができた。

父の生前、体が不自由になったときに、バリアフリーのありがたさを知った。それまでは、あまり気にしていなかったけど、父と一緒に行動することで、バリアフリーのありがたさを体感できた。

健康な時には、それを幸せなどとは思わない。風邪をひいて、普段の体調のありがたさをしる。いつだって人間は、目の前のことを忘れる天才だ。何か壁にぶつかったときに「感じる」「考える」ことで、一つ成長していく。

「眺める」ということを考えてみると、妻がまさにその達人であろう。もう5年以上、見ることのできる範囲だけを「眺める」、聞こえる範囲の音を「聞く」、そして人の心を「感じる」・・・他の情報を捨てることで見えてくる真実というものがあるはずだ。

2年前、2013年5月、最初に柴田先生が来てくれて、妻から言葉を読み取ったときの言葉を思い出す。
「残念ながら一人では何も出来なくなってけど、すべて理解できていたので、これで伝えられましたね。小さい住まいですが、ここ(病院のベッド)が今の私の平和な住まいです。ここには最高の幸せがあります。何ももう望むものはありませんが、感謝の気持ちを伝えたかったので嬉しいです。塵も積もれば山となると言いますが、人間の幸せって、そういう毎日の繰り返しなのだということを、つくづく実感しています。そう悪い生活ではありませんよ。」

今読み返しても、すごい言葉だな。しかし、妻は倒れてからこの時点で3年、自分のできる範囲でものごとを「眺め」「聞き」「感じ」自分を高めていったのだろう。

さて、端座位を終えてテレビを見ていた妻も、ちょうど目を閉じている。そろそろ今日は、バスと電車とゆっくり歩きで、片山さん絵も出展されている、ギャラリーwearmeの「ウェアミー的茶の湯」へ向かおう。


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